土地に仕える逆さ斎の少年はそう呟いて、地下へ消えていくふたりの背中を優しく見下ろし、溜め息をつく。
「本気?」
見計らったかのようにかすみが四季に声をかける。先ほど交された会話の真意について。
「ボクは本気だけど、これで向こうが本気になってくれるなら、そっちの方が嬉しいかな」
「おひとよし」 「あまのじゃく」ぼそりと呟かれたあられとかすみの言葉に、四季は「そのとおり」と朗らかに笑う。
けれど、地下から発せられる邪悪な神の気配に、四季の顔色は蒼褪めている。神職に仕えている四季にとって、邪神の気配は身体を蝕む毒。そしてかすみも四季の体調の変化に同調して顔色を曇らせ、身体を震わせる。「……無理しなくていいのに」
あられが呆れたように呟き、しっしっと野良犬を追い払うように手を振るう。
「逆さ斎が邪神を恐れるのは本能が警告しているだけだ。これくらい、なんてことない」
「強がり」 「悪いか」見えない火花がふたりの間に散り、かすみが慌てて間に入る。
「こんなとこでいがみ合わないでよー。逆さ斎とはいえシキは邪神を浄化したり消滅させる能力がないから戦うことすら儘ならないってお姉さまだってわかってらっしゃるでしょ?」
「だから心配なの。穢れなき乙女の血肉を喜んで口にして闇に堕ちた邪悪な神の気配が渦巻くこの座敷牢に彼女は閉じ込められているのよ。もしかしたらもう精神を食べられ狂っているかもしれない。そんなところにちからのない天神の娘を連れて行っても意味があるとはあたくしには思えない」 「それは雹衛にきいたの?」さりげなく恋人の名をだせば、あられは四季の前で顔を朱色に染め、「そ、そうよ、悪い?」と開き直る。この学校の私兵として雇われた『雪』の青年と恋愛関係にあるあられは彼の名を出すと驚くほど素直になる。
「ならばまだ大丈夫。寒河江さんは雹衛と同じ『雪』だから、帝都の何も知らない華族令嬢のようにすぐに意識を手放すようなことはしないはずだよ。それに、与えられた食事はちゃんと食べているんだろう?」
* * * 寮内の灯りが消され、全体が暗闇に沈んでどれほどの時間が経過したのか。 薬品の匂いが漂う白い部屋の硬い寝台で横になっていた桂也乃は複数のひとの気配に首を傾げる。 救護室は桂也乃以外誰もいない。面倒を見ていた校医の氷室もこの時間は職員宿舎に戻っている。彼女が忘れ物でも取りに来たのだろうか。「――違う」 帝都で起こった天神の娘を巡る争いに関しては無味乾燥な立場にあたるカイムの彼女がこんな時間に他の人間を連れてやってくるなんてことはまず考えにくい。だとしたら。 自分が見守る立場にあった天神の娘の身に何かが起きた……? いてもたってもいられなくなり、桂也乃は襦袢姿のまま、立ち上がり、声をかける。「四季?」 がらり、と勢いよく扉を開く。「怪我の方はもう大丈夫なのかしら?」 「……梧さん。それにみぞれさんまで」 桂也乃の前へ姿を現したのは、四季と小環ではなかった。梧慈雨と鬼造みぞれ。なぜ、こんな時間にふたりは桂也乃に会いに来たのだろうか。 話があるから、と、寮の外に連れ出された。たぶん、罠だろう。けれど、桂也乃は素直についていった。真紅の寒椿の花がちらほらと咲く庭園の片隅へ。 ひとけのない、冷たい夜。「それで、話って……」 桂也乃は襦袢の上に外套を羽織った姿で白い息を吐く。「これで、問題はないでしょうか」 桂也乃の訝しげな反応を気にすることなくみぞれは慈雨に問いかけ、慈雨もまた頷く。「そうね。これ以上余計なことをされても困るものね」 ふたりの会話から、桂也乃はなぜふたりがいま自分を探しに来たのか、外へ連れ出したのかに勘付き、ぺろりと舌を出す。 ――露見(バレ)たか。 天神の娘を確保し皇一族と優位な関係を築くために動く帝都清華と、天神の娘を危険視し排除にあたる古都律華。その裏に潜む数々の陰謀を察知し、経過を混ぜながら暇さえあれば手紙を書いて方々に送っていた存在が桂也乃であることを気づいたのだろう。
土地に仕える逆さ斎の少年はそう呟いて、地下へ消えていくふたりの背中を優しく見下ろし、溜め息をつく。「本気?」 見計らったかのようにかすみが四季に声をかける。先ほど交された会話の真意について。「ボクは本気だけど、これで向こうが本気になってくれるなら、そっちの方が嬉しいかな」 「おひとよし」 「あまのじゃく」 ぼそりと呟かれたあられとかすみの言葉に、四季は「そのとおり」と朗らかに笑う。 けれど、地下から発せられる邪悪な神の気配に、四季の顔色は蒼褪めている。神職に仕えている四季にとって、邪神の気配は身体を蝕む毒。そしてかすみも四季の体調の変化に同調して顔色を曇らせ、身体を震わせる。「……無理しなくていいのに」 あられが呆れたように呟き、しっしっと野良犬を追い払うように手を振るう。「逆さ斎が邪神を恐れるのは本能が警告しているだけだ。これくらい、なんてことない」 「強がり」 「悪いか」 見えない火花がふたりの間に散り、かすみが慌てて間に入る。「こんなとこでいがみ合わないでよー。逆さ斎とはいえシキは邪神を浄化したり消滅させる能力がないから戦うことすら儘ならないってお姉さまだってわかってらっしゃるでしょ?」 「だから心配なの。穢れなき乙女の血肉を喜んで口にして闇に堕ちた邪悪な神の気配が渦巻くこの座敷牢に彼女は閉じ込められているのよ。もしかしたらもう精神を食べられ狂っているかもしれない。そんなところにちからのない天神の娘を連れて行っても意味があるとはあたくしには思えない」 「それは雹衛にきいたの?」 さりげなく恋人の名をだせば、あられは四季の前で顔を朱色に染め、「そ、そうよ、悪い?」と開き直る。この学校の私兵として雇われた『雪』の青年と恋愛関係にあるあられは彼の名を出すと驚くほど素直になる。「ならばまだ大丈夫。寒河江さんは雹衛と同じ『雪』だから、帝都の何も知らない華族令嬢のようにすぐに意識を手放すようなことはしないはずだよ。それに、与えられた食事はちゃんと食べているんだろう?」
* * *「冗談はよせ」 桜桃への突然の求婚に、小環が四季を窘める。狼狽する小環を見て、四季はすまなそうに微笑を浮かべ、桜桃の瞼を指でなぞる。「冗談じゃないよ。『天』の傍流である逆井一族にとってカシケキクの血統を受け継ぐ天神の娘は希望の象徴なんだ。カイムの巫女姫の娘がこの地へ戻ってきたと知って、ボクたちは嬉しいのさ。できれば花嫁に迎えて潤蕊に縛りつけたいくらいだ」「あ、あたし……」 四季の言葉にたじろぐ桜桃は救いを求めるように小環の方へ視線を向けるが、小環も四季の発言に戸惑いを隠せないようで、桜桃に何も言ってくれない。「無理強いするつもりはないよ。ただ、考えておいてくれると嬉しいなと思ったからさ」 くすくす笑って四季は桜桃の身体を突き放す。ふらついた身体を受け止めたのは、小環。「そもそも女同士じゃ結婚なんてできないだろ?」「篁、おかしなことを言うね。この女学校に入るためなら金と縁故コネがあれば身分や姓名や性別を詐称したって問題ないことくらい、君だって自分の身で立証済みだろう? それに逆さ斎はふつうの斎じゃないんだよ」 なんせ逆なのだ。少女だけが斎だとは限らないと四季は堂々と口に乗せる。「四季さん、も、オトコ?」 信じられないと途方に暮れている桜桃と、「も」って何のこと? と首を傾げているあられ。「ここまできたら、君も正体を名乗った方がいいんじゃないかな? 皇子さま」「……貴様、何が目的だ」 皇子と呼ばれて小環の顔つきが豹変する。身分を隠したまま桜桃の傍にいた小環は、いままで被っていた仮面を脱ぎ捨てるかのように口調を変え、不敵な笑みを浮かべる四季へ詰め寄っていく。「暴力的な衝動に駆られて考えなしに動くのはよくないと思うけどな? それに、ボクのことよりもいまは優先すべきことがあると思うんだけど?」 小環に襟巻を掴まれた四季は白い息を吐きながら饒舌に言葉を紡ぎ、桜桃たちを優しく煽る。「地下にお入
「ええ。古都律華が崇める真実の神、そして皇一族に脈々と連なる血族たる神。国造りの神とも呼ばれる始祖神は、海より生まれた母神とその土地に暮らしていた男の息子であることを、あなたもご存知ですよね」「ああ」 蝶子の言葉は水が流れ落ちるかのようにゆるやかに幹仁の内耳をくすぐっていく。「彼はその土地を治めたことで始祖神と呼ばれました。ですが、そのときの彼はまだ、半神にすぎません。彼は国を造り、民を生み出したものの、存続させるだけのちからがありませんでした。そこで彼は、自分が治める土地を訪問してくる数多の神々に協力を仰ぎました。海の母神をはじめ、農耕の神、産土の神、河川の神、動物の神……ときには戦神や死神まで」 戦神や死神、と口にしてから、蝶子は深呼吸する。「そうして、この土地に暮らす民は循環の輪に入りました。始祖神もまた、民と混じり生活を楽しみ、人間の女との子を残しました」 それが、皇一族のはじまりとされている。 幹仁は頷き、はなしのつづきを促す。「ですが、彼が愛した人間の女が死んでしまい、彼は国を治めるやる気を失ってしまったのです。そんなとき、救いの手を差し出したのが、北国から舞い降りてきた天空の姫神でした。あなたたちが至高神と呼ぶのは、その天女のことです」「……天神の娘、か」 地を治めていた始祖神の危機を救ったのは天を治めていた至高神だった。愛するひとを失い地を治める意欲を失っていた彼のために、彼女は自分が持つちからを分け与え、完全な神としての能力を覚醒させたのである。「こうして、皇一族の祖先である彼は始祖神として名を残し、国造りの神として、いまなお崇められているのです」 半神から完全なる神になったことで、彼はひとびとと深く関わることをやめ、いまでは姿を隠してこの国を見守っているという。 蝶子は夫となった人間が仕える始祖神から、至高神が与えてくれた逆さ斎のちからを分け与えられたのだと伝え、口を閉ざす。 なぜ天女が半神たる神に自分のちからを分け与えたのか。それは、天女もまた人間の男を愛
* * * 暖炉にくべられた薪がパチリと爆ぜる。「ん……」 来客のために暖められた部屋の、長椅子(ソファ)で微睡んでいた少女はその激しい音に驚き、意識を覚醒させる。「いけない!」 ちからを使ったばかりで体力が消耗していたようだ。女中服姿のまま長椅子に身体を凭れうとうとしていた少女は頭上に気配を感じてハッと顔をあげる。「ごめんね、起こしちゃったかな」 端正な顔立ちの紳士が目の前にいた。野性的な部族の民とは異なる帝都の華族。たしか、后妃を拘束したときに見かけた、向清棲伯爵家の。兄、幹仁の方だ。「いえ……お見苦しいところを失礼しました」 客室で居眠りをしていたこちらに非があるのは明確である。立ち上がり、女中服の裳裾スカートをはたきながら、少女は幹仁に謝罪する。「そんなことないよ。許されるものならもっと眺めていたかったな」 ふふふと笑いながら幹仁は少女の瞳を見つめる。無表情ながらも灰色がかった双眸の奥に煌めく琥珀色の虹彩が彼女が人形ではないことを証明している。「何か?」 じっと見つめられて少女の頬がほんのり桜色に染まる。それでも、表情は変わらない。まるで筋肉が死んでしまったかのように。「きみが、『雪』の部族、美生家の一姫か……表情を殺したという」「いまは結婚して覗見(うかがみ)と名乗っております、幹仁さま」 美生蝶子、こと覗見蝶子はやんわりと名乗り、幹仁の前へ跪く。『雪』の部族にいた蝶子にとって向清棲の人間は上客にあたる。家から外れたにも関わらず、自然と身体が動くのは、目の前にいる伯爵が圧倒的な活力を秘めているからであろう。 彼は伯爵という地位で満足する人間ではない。更に偉大なことをするに違いない。 一目見て感じた蝶子は、彼の存在を受け入れた。そして幹仁もまた、不思議なちからを使う蝶子に抗えない魅力を感じていた。「后妃さまがきみのことを『逆さ斎』と呼んでいたが、それはどういうことだ
* * * 三七十(みなと)区司馬浦港、二十一時。 見送るものの姿もない、貨物のための富若内行き最終便がゆっくりと動き出す。街燈が揺らめく水面を感慨深そうに見つめながら、最低限の灯りしか設置されていない薄暗い甲板の上で柚葉は隣に立つ男の声に耳を傾ける。 異母妹を暗殺しようとし、柚葉の母実子に手をかけた黒幕は名治神皇の正妃である冴利だったという。どうりで、川津家の動きが鈍るわけだ。「そなたの母君には申し訳ないことをした。だが、后妃は天神の娘を執拗に狙っている。川津当主が手を引いたからといってあっさり諦めることはないだろう」「そうですね」 きっぱりと言い切る柚葉に、男はすまなそうに身体を縮める。「こちらの不手際だ」「……皇一族の動きが活発だとのはなしはうかがっていましたが、まさかこういった形で火の粉がかかるとは思いませんでしたよ」 凪いだ海の波音は静かで、小声の柚葉とぼそぼそと喋る男の言葉は問題なく伝わっていく。「水嶌の女は扱いづらいんだ」「古都律華の人間を利用できるだけ利用したあなたの言葉とは思えませんね」「柚葉どのも」「僕はいいんです。でも、帝都のごたごたに巻き込まれるような形で『雨』である種光さんがこんなことをする必要はなかったはず。何が、あなたをここまで動かしているのですか?」 深い夜の闇に、ふたりの男の影が飲み込まれていく。規則的に寄せては返す波しぶきが船体へぶつかる音が、夜の黒に沈んだ船内を震わせている。 ふいに、種光が零す。「――娘が、いるんだ」 柚葉が異母妹を大切にするように、大事にしている娘が、種光にもいる。 けれど、その娘は、両親をはじめとした血族の復讐の焔に燃えている。 彼女の無念を晴らすため、カイムの地を蹂躙するようなかたちで国土とした皇一族に一矢報うため、『雨』の部族を統括し、潤蕊一帯を買い占めた鬼造一族よりも強い支配をつづけている梧家が動きだしたのだ。「慈しみの雨、って書いて慈雨っていう、